こんにちは。今回はロシア史において人気の高いピョートル大帝についてご紹介したいと思います。
身長は2Mを越え、ロシアを強国に作り上げるために、自ら西欧諸国に学びに行く、
好奇心旺盛な人物。そんなピョートル大帝は皇帝に即位し、何をなしえたのか。
どんな人物だったのか詳しく見ていきましょう!
- ピョートル大帝とは
- 何をしたのか
- 北方戦争
- エピソード、逸話
ピョートル大帝とは

ピョートル大帝は、ロシアのロマノフ朝を興したミハイル・ロマノフの孫として生まれ、
幼少期はロシア国内の混乱のため田舎で過ごし、落ち着いたのち宮殿に戻り
わずか10歳という若さで1682年、ロシア皇帝に即位しました。
成長すると2mを越える大男になり、勉強熱心な性格もあって皇帝になったあとでも
1697年に「大使節団」として西欧諸国を訪れ、直接現地で軍事・産業・文化を学びました。
この視察で西欧諸国の発展を目の当たりにするとともに、祖国であるロシアの技術の遅れを痛感。
帰国後は自ら指揮を執り、ロシアの発展に努めました。
何をしたのか。

ピョートル大帝は先ほど話したように、ロシアの近代化に向けて多くのことを行いました。
まず1689年には清の皇帝であった康熙帝と、国境問題を解決するためにネルチンスク条約を結び、
国境線を確立しました。その後ロシアの発展には交易が大事だとピョートル大帝は考え、
オスマン帝国に対して圧力をかけ、黒海への入り口となるアゾフ海を獲得。
次にバルト海に進出するために、当時バルト海沿岸の制海権を握っていたスウェーデンに戦争を仕掛け
北方戦争を開始。次の章でも詳しく書きますが、20年以上戦いロシアが勝利。港を建設します。
またロシアの東の方では1728年、ピョートル大帝に仕えていたデンマーク人の冒険家ベーリングが
ベーリング海峡を発見。そのまま進んでいきアラスカまで到着。そこをロシア領としました。
また文化面でも国民に近代化を行わさせ、貴族には西洋風の衣装や髪型(髭を剃ること)を強制。
国内に学校を作って外国人を雇い、数学や化学を国民に学ばせました。
北方戦争

ここで北方戦争について詳しく見ていきましょう。
バルト海への進出を狙っていたピョートル大帝は1700年スウェーデンと覇権をめぐって戦争をします。
ピョートル大帝率いるロシア軍に対して、敵国のスウェーデンの王はまだ10代のカール12世。
若いため軽視していたロシア側でしたが、このカール12世はなかなかの切れ者であり、
最初の戦いであるナルヴァの戦いではロシア軍は約4万人、スウェーデン軍はわずか1万人ほど。
しかし、スウェーデン軍は雪嵐を利用して奇襲攻撃を仕掛け、ロシア軍は大混乱に陥った。
その結果ロシア軍は惨敗することとなります。
その後軍の強化や再軍備を行い、ナルヴァの敗北から9年後、
ロシア軍はポルタヴァの戦いでスウェーデン軍に雪辱を果たします。
ポルタヴァで敗れたカール12世は、なんとオスマン帝国(トルコ)に逃亡。
カールはオスマン帝国に援助を求めたが、期待した支援は得られず、亡命生活を強いられました。
6年間もトルコで過ごした後、1714年にスウェーデンへ帰国。
そして1721年ニスタット条約が結ばれロシアはバルト海沿岸のエストニア、ラトビア、カレリア地方を獲得。
「我々はようやくバルト海への窓を手に入れた。」と大帝は言い、戦争は終わりました。
戦争する中で多くの土地を獲得し、都市を建設させました。その中でも有名なものが
のちに首都となるサンクトペテルブルクです。1703年に建設を命じられたこの都市は
「バルト海への窓」として建設され、西欧諸国を見ていたピョートル大帝は西欧の都市のようにすることに執念を燃やしており、
オランダ・イタリア・フランスから建築家・技師を招き、西欧風の宮殿・運河・広場を整備し、
サンクトペテルブルクでは、西欧文化の一環として仮面舞踏会や宮廷儀式が頻繁に開催されました。
そんな豪華な都市は「北のヴェネツィア」とも呼ばれたそうです。
しかし建設には多くの労働者が使われ、この地は湿地帯で、工事は極めて過酷だったことから
数十万人の農民、囚人、兵士が動員され、過労・病気・飢えで数万人が命を落としたと言われています。
そのためピョートル大帝は「この都市は人々の骨の上に建てられている」と語ったとも伝えられています。
エピソード、逸話
ここでピョートル大帝の逸話をいくつかご紹介。
1697年、ピョートル大帝は「大使節団」として西欧諸国を訪問中、オランダの造船所で本物の大工として働いたそうです。
身分を隠して「ピョートル・ミハイロフ」と名乗り、現地の職人たちと一緒に汗を流し、
仕事を学ぶうち、造船技術を学ぶだけでなく、大工仕事そのものにも夢中に。
後に自らの宮殿や船の設計にも関与したと言われています。
そんなピョートル大帝はとにかく何事にも興味があったそうで、医学の近代化にも情熱を注いでいました。
彼は公開で死体解剖ショーを行い、医学知識を広めようとしました。時には自らメスを手に取り、
臓器の構造を説明したこともあるとか。見物人たちは驚きながらも、ロシア医学の発展に寄与することになりました。
驚くことになんと自ら歯を抜く技術を習得していたという話もあります。
宮廷の人々の虫歯を見ると、彼は自ら抜歯しようと申し出ました。
ピョートルは何人もの歯を抜いたと言われ、「皇帝に歯を抜かれた」というのが名誉だったとか。
またピョートル大帝は造船技術を自ら試すのが好きで、自作のボートを作っていたそう。
ある日、彼は自作のボートで川下りに挑戦。ところが、途中でボートが傾いてしまい、
ピョートルは川に落ちた!ずぶ濡れのピョートルは「まだ改良が必要だな!」と笑い飛ばしたそう。
自作の小型船で友人たちと競争するのも趣味だったそうで、
ある時、ピョートルの自慢の船がレースで惨敗。
しかしピョートルは悔しがるどころか「次はもっと速い船を造るぞ!」と大喜び。
この情熱が、後のロシア海軍発展に大きく貢献したのでしょう。
他にも城や軍隊、舞踏会なども自ら率先して行っていたそうで、多趣味だったそう。
まとめ
晩年のピョートル大帝は腎臓病と泌尿器系の感染症に悩まされていました。
そんな持病を抱えているにもかかわらず、1724年末のある日、
冷たい水に入って遭難した水兵を自ら救出した際、さらに病状が悪化。
その後、感染症が悪化して高熱と激痛に苦しみ続けました。
そして1725年1月28日(旧暦1月8日)、52歳でサンクトペテルブルクで崩御しました。
後継にはエカチェリーナ1世が即位。
ピョートル大帝は一代でロシアの近代化の礎を作った人物であり、情熱を持っていました。
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