ロシアの女帝 エカチェリーナ2世

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こんにちは。今回はロシア史の中でも有名な皇帝の一人であり大帝とも呼ばれる、

エカチェリーナ2世についてご紹介したいと思います。

当時のロシアをより強国にするために領土を獲得し、人気を勝ち取った大帝はどんな人物だったのか

一緒に見ていきましょう!

  • エカチェリーナ2世とは
  • 何をしたのか。
  • 啓蒙専制君主の一人
  • エピソード、逸話

エカチェリーナ2世とは

エカチェリーナ2世はドイツ貴族出身の外国人であり、16歳のときに政略結婚が決まりロシアに嫁ぎました。

当時のロシアではエリザヴェータ女帝が倒れ、彼女には子供がおらず代わりに彼女の姉の子である、

ピョートル3世が後を継いでおり、そのピョートル3世に嫁いだのがエカチェリーナ2世です。

ロシアに来るにあたってロシア語を必死で勉強し、宗教もロシア正教に改宗。ロシア人に認められるように努力しました。

そんな彼女が結婚したピョートル3世は、彼女とは打って変わってまあ、無能でした。

大人になっても趣味のおもちゃの兵隊ごっこに夢中であり、七年戦争のときにはもう少しでプロイセンに勝てるのに、

「プロイセンの王フリードリヒ2世のファンだから」という理由で戦争から撤退します。

そして挙句の果てには有能なエカチェリーナ2世に嫉妬し、彼女を王宮から追放し、愛人と結婚しようとしました。

当然エカチェリーナ2世はぶち切れ。自ら馬に乗り1762年、軍人であり、愛人でもあったグリゴリーとともに

クーデターを決行。夫を追放し、エカチェリーナ2世として即位します。(在位:1762年–1796年)

ここにロシア出身でもない、王家の血もひいていない皇帝が誕生しました。

そのため彼女はロシア人たちに支持されるためにロシアの拡大に努めます。

何をしたのか。

まずエカチェリーナ2世は領土の拡張に努めます。

1772年、当時のオーストリアの君主ヨーゼフ2世とプロイセンのフリードリヒ2世とともに

弱体化していたポーランドを分割。これが第一回ポーランド分割となります。

ポーランド分割はその後も1793年にはプロイセンとロシアが二回目を行い、

1795年には一回目と同じ三国がもう一度行われ、この第三回ポーランド分割によってポーランドは

第一次世界大戦後の1919年に復活するまで消滅させられました。

1792年にはイスラームのオスマン帝国と争いを開始。クリミア半島を獲得。

ロシアが南下政策していくうえでの重要な拠点となりました。

領土を広げていく一方で、国内の改革にも着手していきます。

学芸の保護や法律を整備、また庶民が通える小学校や病院を建設。貴族の女性たちには

スモーリヌイ学院といった学校をを設立し、貴族の女性が教育を受けることも推奨しました。

エカチェリーナは芸術愛好家でもあったため、エルミタージュ美術館の基礎も築き、

ヨーロッパ中から美術品を収集し、ロシア文化の発展に寄与しました。

美術館の特にお気に入りの絵画の前では、ワインを片手に哲学的な独り言を語ることもあったとか。

そのような改革が行われていくうえで反乱も起こります。

当時ロシアには農奴制が採用されており、この制度では、農奴と呼ばれる農民が地主に属し、土地に縛られた状態で働いていました。

それに対して貧民であるプガチョフという男が農奴制の廃止を掲げ民衆たちを集め、

(一説には「私はピョートル3世だ」と言いながら)1773年に反乱を起こします。

これは大きな反乱となり、一時モスクワも危なかったものの鎮圧に成功。

プガチョフは捕らえられて処刑。エカチェリーナ2世は反乱後さらに農奴制を強化することとなります。

啓蒙専制君主の一人

そんなエカチェリーナ2世は啓蒙専制君主の一人として名前が挙がります。

啓蒙専制君主とは啓蒙思想(理性・科学・人権の尊重)に影響を受けながらも、絶対的な権力を維持した君主のことです。

代表的な人物としてエカチェリーナ2世のほかに、フリードリヒ2世(プロイセン)、

ヨーゼフ2世(オーストリア)、マリア・テレジアオーストリア)などがいます。

彼女自身もフランスの哲学者ヴォルテールやディドロといった人物らと文通を行っており、

その考えが美術館の建設や学校、病院の建設といった事業につながっています。

しかしお気づきのように啓蒙思想を持ちながらも、反乱を弾圧しています。

専制政治は維持されたため、民衆の自由や民主的な制度は制限されており、

農奴制の廃止や完全な平等は認められず、権力維持のための改革に留まることが多かった。

あくまで君主の権威を維持することが目的だったため、ここに矛盾と限界があります。

エピソード、逸話

ここでエカチェリーナ2世のエピソードをいくつかご紹介。

エカチェリーナ2世は愛人がとても多いことで有名で、公式彼氏は10人以上といわれています

その中にはポチョムキンやスタニスワフ・ポニャトフスキ(後のポーランド王)も含まれており

愛人には高位の地位や財産を与え、政治的な影響力を持つ者も多かったそう。

最も愛したと言われているのがポチョムキンであり、彼は隻眼だったものの有能な軍人、政治家であり

10歳以上年が離れていたものの、エカチェリーナ2世から口説いたようです。

その後恋愛を経て友達となったポチョムキンは彼女にイケメンを紹介していたそうな。

そんなポチョムキンにも逸話があり、エカチェリーナがクリミア視察の際、

恋人のグリゴリー・ポチョムキンが沿道に偽の村を建設したという話が。

村人たちは裕福そうに見える服を着せられ、家屋も遠目から見栄えがよいように装飾された。

ただし、実際にはこの「ポチョムキン村」は都市伝説に近く、エカチェリーナ自身は真実を知りながら、あえて黙認していたとも言われています。

ポチョムキン伝説は虚飾や見せかけの象徴として語り継がれています。

晩年のころになると、新しい愛人を選ぶ際には「面接」のような形式が取られ、

宮廷の貴族の中から若く魅力的な男性が選ばれ、彼女の寵愛を得るためには教養・容姿・気配りすべてが求められたそう。

愛人が多すぎたせいか、馬との奇妙な関係」という根も葉もない噂が広まったこともあったそう。

経験豊富なエカチェリーナ2世は恋愛相談にもよく乗っていたそうで、

彼女は愛は権力と同じくらい複雑だという名言を残し、

ある時、若い貴族の女性が「どうすれば意中の相手を振り向かせられるか?」と相談すると、

エカチェリーナは彼にチョコレートとワインを贈りなさい。それで彼の心は溶けるはずよと助言したとか。

彼女の好物はチョコレートだったとされ、特にホットチョコレートを好んだと言われています。

彼女は毎朝、特製のホットチョコレートを飲んで1日を始めていたとか。

また当時にしては珍しく一日に二回お風呂に入っていたそうな。

まとめ

エカチェリーナ大帝とも呼ばれた彼女によってロシアは繫栄していきました。

愛人がとても多かったにもかかわらず、恋に溺れることなく仕事をしていたのはすごいね。

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