フランス革命を終わらせ、現代にまで影響を与えているナポレオン法典などを制定し、世界史の偉人の中でも人気が高いナポレオン。
そんなナポレオンも面白いエピソードがあるため、紹介していきたいと思います。
いくつかのエピソードをを紹介した後に、具体的にナポレオンは何をしたのかということも書きたいと思います。世界史の勉強に役立ててもらえたら幸いです。
- ナポレオンのナポレオンは小さい!?
- 妻に浮気されるナポレオン
- 有名な「私の辞書に不可能はない」はいつ言った
- ナポレオンの登場から流刑まで
ナポレオンのナポレオンは小さい!?
まずナポレオンのナポレオンは小さいと言われています。
ナポレオンのドキュメンタリーがイギリスで放送されましたが、そのインタビューによると
彼の長さは測定すると、約1.5インチ(約3.8cm)であったとされました。
また1927年にはニューヨークで展示会が行われており、鑑賞したものによれば
「革の切れはしか、萎えたウサギ」といった声が上がり、状態があまりよくないことがうかがえます。
妻に浮気されるナポレオン
そんな彼ですが、妻がいました。名前はジョゼフィーヌ。
ジョゼフィーヌは30代のバツイチでしたが、社交界ではモテモテでした。
映画も2023年に公開されましたね。見ましたか?
ナポレオンはジョゼフィーヌを熱愛しており、戦地にいる間でも彼女に手紙を熱心に書いていました。
多い時には一日に4通も送ることがあったそう。
彼の熱愛ぶりとは反対に、ジョゼフィーヌは戦地にいるナポレオンを気にすることなく浮気していました。相手はイケメンだったそうな。
浮気を知ったナポレオンは大きくへこたれ、兄に離婚を伝える手紙を送ります。
その手紙がイギリス軍にばれてしまい、スクープが報じられるとますますへこみます。
離婚後彼はオーストリア皇帝の娘マリ=ルイーズと再婚します。さらなる権力を求めました。
しかし、ナポレオンは一度愛した女性を忘れることが出来なかったようです。
有名な「私の辞書に不可能はない」はいつ言った
みなさんも一度はこのセリフを聞いたことがあると思います。かっこいいですよね。
フランス革命初期、多くの勢力が分裂していく中で南フランスのトゥーロン港では、
王党派(国王や王政を支持)が反乱を行い、この勢力は革命に否定的であり、フランスと敵対関係にあるイギリスなどを港に招き入れました。
その鎮圧および奪還を命じられたのがナポレオンでした。このとき彼は少佐であり、軍事指揮において
才能を発揮しました。要塞に大砲を毎日ぶち込んだのです。
休むことなく鳴り続ける砲弾や予断を許さない戦況に兵士たちは疲れ果て、へこたれました。
「もうだめだ。」そんな弱音が聞こえてきたときに彼は言ったのです。
「私の辞書に不可能という文字はない」
これはこうも訳されています。「不可能はフランス語ではない。」

ナポレオンの登場から流刑まで
ナポレオンの面白いエピソード、かっこいいエピソードを書かせてもらいましたが
ナポレオンの登場から流刑まで簡単に述べさせてもらいます。
ナポレオンは敵国イギリスが勢力を誇っていたエジプトを妨害するため、エジプト遠征に向かいます。
そこで順調に勝っていましたが、アブキール港にあるフランス海軍の軍艦が、イギリス海軍に燃やされてしまいます。帰れなくなりました。
それを好機とみたイギリスは革命を嫌がる君主制である国々、オーストリア、ロシア、オスマン帝国、ポルトガルなどを集めて、同盟(第二回対仏大同盟)を結成します。
危機に陥ったフランスでしたが当時の政府(総裁政府)は無能であり、危機にうまく対処できません。
これを聞いたナポレオンは「私がいなければフランスが危ない!」として
エジプトから小舟でフランスに帰還。そこから兵を集め総裁政府を打倒し、統領政府を作った。
これがブリュメール18日のクーデタです。
こうして統領となったナポレオンは多くの改革を行っていきます。
1800年フランス銀行を設立し、財政の安定を目指します。
1801年にはローマ教皇と政教協約(コンコルダート)を結び、国内にカトリックを復活させます。
1802年には敵国イギリスとアミアンの和約を結び、平和を確保。
1804年には私有財産の不可侵などを宣言したナポレオン法典を制定し、革命の成果としました。
ナポレオンは国民投票で終身統領に就任し、1804年にはナポレオン皇帝として即位した。
これによってフランスは共和制から第一帝政へと移行しました。
このナポレオンの皇帝即位に際して、イギリスの当時の首相ピットは激怒。第三回対仏大同盟を結成し、フランスと敵対した。
1805年トラファルガーの海戦が勃発し、エジプトでフランス軍艦を燃やしたイギリス艦隊のネルソン提督と対戦。フランス軍は敗れたが、この戦いでネルソン提督は戦死。
海戦から二か月後、ロシア皇帝アレクサンドル二世、神聖ローマ皇帝フランツ二世VSナポレオン皇帝
でアウステルリッツの三帝会戦が勃発、ナポレオンは歴史的な勝利をおさめる。
ヨーロッパを支配したナポレオンは戦いを止めなかった。
1806年にはイエナの戦いでプロイセン軍を破り、大陸封鎖令を出す。
これはイギリスを兵糧攻めにするためにヨーロッパ各国にイギリスとの通商を禁じたものであり、ヨーロッパ市場を独占しようとした。
しかしながら多くの植民地を持ち、お茶や砂糖を輸出していたイギリスとの貿易を禁じられたヨーロッパ各国は輸入品不足に。
しびれをきらしたロシアがイギリスとの蜜貿易を行うとそれを知ったナポレオンは激怒。
1812年にロシア遠征を行う。だがロシアの冬将軍到来などにより敗戦。
これを聞いたヨーロッパ各国はナポレオンの抑圧に反抗し、第四回対仏大同盟を結成。
1813年のライプツィヒの戦いで同盟国は勝利した。
ナポレオンは敗戦後、エルバ島に流され、同盟国側は戦後処理の会議を開いた。(ウィーン会議)
しかしながら全く決まらない。「会議は踊る、されど進まず。」
そんなうちにナポレオンは1815年エルバ島を脱出。
フランスでのカリスマ性は圧倒的であり、再び軍を集めベルギーに北上した。
焦った同盟国側も軍を編成し、1815年ワーテルローの戦いが勃発。
ここでフランス軍は敗れ、ついにナポレオンはセントヘレナ島へ流刑に。
1821年、ナポレオンは胃がんで死亡。享年51歳であった。

まとめ
ナポレオンの生涯は波乱万丈であるとともに、近代ヨーロッパにおいて多くの影響を与えました。
そんな彼だからこそ今でも多くのエピソードが語られてきました。
当時のフランス国民にとって彼のカリスマ性は圧倒的であり、
そのせいでイギリスなどの周辺国はより警戒したことでしょう。
まだ多くのエピソードがあると思いますのでぜひ調べてみてください。
ここまで読んでいただきありがとうございました!
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